2017/12/01

大学のまち・京都の景観を守るとは?(京都大)


大学という言葉から浮かんでくる情景は、年代によって大きく変わってくるように思います。おじいさん世代なら一部のエリートが通う高等教育機関、団塊の世代なら全共闘運動の熱気と混乱。私はだいぶあとの世代なので、自分探しとか、モラトリアム期間とか、そういう言葉が似合う伸び伸びとしたイメージを大学に持っています。

とはいえ、これら世代ごとに大学の様子がガラリと変わるのではなく、グラデーション的に大学は変わっていきます。しかし現在、京都大学で起こっていることは、グラデーションなんてものは微塵もなく、劇的に風景が変わるかもしれない事件です。

以下、朝日新聞デジタルより。

「京大の文化」立て看板、景観条例違反指導で学生ら困惑 
京都大学の本部がある吉田キャンパス(京都市左京区)に学生たちが置く立て看板が、京都市の景観を守る条例に違反するとして、行政指導を受けていることがわかった。京大は設置場所などの制限を検討している。大学紛争の時代も経て、様々な考えや身近な情報を伝えてきた通称タテカンは、美観とのはざまで消えゆく運命なのか。(後略)

実は先週、京大に行っていたので、この話題はだいぶタイムリーです。京大・吉田キャンパスの周囲に立てられた看板は、主義主張を全面に押し出したものがあれば、マニアックな研究会やオタク全開のサークル紹介もあり、非常に個性豊か。京都が“学生のまち”であることを、一番強く感じさせてくれる場所なように思います。

この立て看板がなくなるかもしれないというのは、大学好きとして、また学生時代を京都で過ごしたものとして、とても悲しい思いがします。そして、京大関係者が自主的に撤去するなら、悲しくはあるものの仕方ないかと思うのですが、今回はそうではないんです。景観条例違反ということで、行政から指導を受けています。

景観条例違反。なんかこれにすっごく引っかかります。だって「景観」という言葉を調べると『ブリタニカ国際大百科事典』に下記のように書かれているわけです。
一定範囲の地表空間、すなわち目に映じる景色、または風景をさす。一般に自然景観と人文景観とに分けられる。前者は水、地形、植生などを構成要素とし、後者は人間の経済的、文化的活動の営みによって形成されたものをいう(後略)
この文には、人間の経済的、文化的活動から形成されたものも景観だとあります。京大の立て看板は、まさにこれだと思うんですね。そこには洗練されているとは言えないものの、文化的活動があります。そして、これはとても京都らしいし、京大らしいものです。この“ならでは”の景観を、景観を損ねるという理由で消し去ろうとするのは、どうしても矛盾を感じてしまうのです。まだ立て看板が公道に出ているから撤去するといわれるほうがしっくりときます。

九龍城砦って、軍艦島だって、魅力的な景観です。規模はこじんまりしているけれど、京大の看板だって同じように人々の営みがつくった景観です。なかには、過激なことが書かれた看板を見ることもあります。でも、それはよっぽどのことがない限り、京大が自分たちの良心にもとづいて判断し、自分たちで取り締まるべきです。結果、立て看板がなくなったのなら、それはそれで仕方のないことです。京大が変えていくのであれば、それも含めて景観なわけですから。

外から見ているだけなので、ほんとうはもっといろいろ事情があるのかもしれません。でも、他でもない“学生のまち”だから懐の深さを見せて欲しい。勝手かもしれませんが、そう思ってしまうのです。

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